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 第2回 その1)・・湊川神社境内燈籠など竹田岡藩の寄進物調査 
岡藩寄進の石燈籠 訪問先  湊川神社・・・祭神;楠木正成。湊川合戦にて正成一族終焉の地  〔H18/5/14()〕
所在地  神戸市中央区多聞3丁目1−1 (※因みに楠木正成の幼名は多聞丸(タモン丸))
交 通  最寄り駅・阪神、阪急電車「神戸高速駅」下車直ぐ。
所縁の地  竹田市(岡藩)
神戸市中央区にある元別格官幣社、1872年創建。祭神は楠木正成公(大楠公;1294〜1336)。
 神社境内は「湊川の合戦(1336年)」があったところです。横山大観奉納の大楠公像
 北条鎌倉幕府が足利尊氏や楠木正成、新田義貞(1301〜1338)の活躍で滅亡してから後醍醐天皇(1288〜1339)の親政が始まりましたが、公家の不満、横暴極まりその政権は長く続かず、ついに足利尊氏(1305〜1358)は反乱を起こします。足利氏、一度は九州へ落ち延びますが、そこで豊後武士団を中心とする勢力により、再度東上します。
 正成は後醍醐天皇に比叡山への動座を願い、京都での戦いを主張しましたが、公家の連中はこれを聞き入れず、近畿での上陸地点である湊川に布陣し、新田義貞との連携でこれを打ち破るべく準備します。
 ところが新田軍は先方の策略に陥り、楠軍は孤軍となり、高師直指揮するところの足利軍に敗れ去ります。この戦に向かう時、死をも覚悟した正成は、その子、楠正行(クスノキ・マサツラ;小楠公)に「戦場に同行するなかれ!」と後事を託し、正成公終焉の処別れを告げたのが、有名な「桜井の駅」での惜別の場面です。
 余談ですが、ここで「桜井の駅」周辺の史跡について触れます。
 「桜井の駅」は現在の大阪府三島郡島本町にあります。当地は閑静な住宅街の中の公園になっており、この名場面の父子像が建っています。付近は淀川の川幅も狭く、対岸には石清水八幡宮があり、また古戦場の天王山(明智、豊臣の天下分け目の合戦の舞台)も近隣に位置します。
 更には「承久の変(1221年)」の主人公、「後鳥羽上皇」の水無瀬離宮も在り、歴史の転換点の舞台となったところです。伝、大楠公着「段威腹巻〔ダンオドシハラマキ;重文〕」
 湊川神社は常陸水戸藩第2代藩主「徳川光圀(1628〜1700)」により「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、天下にその遺徳が顕彰され、明治になってから神社とされたものであります。
 水戸藩はご存知のように光圀が作成を命じた「大日本史」により、尊王思想が強かった為、幕末の一時期尊皇攘夷思想の旗頭となりました。「桜田門外の変」はその代表的な事件です。(大楠公墓所の脇に光圀公の銅像がある=写真
 わが故郷大分県は外様大名でも小石高の藩が多かったのですが、県下第2の藩である豊後岡藩(藩主は中川氏)の小河氏の小さな石碑が、この墓碑を巡る石碑群の中にあった。この小河氏の小さな石碑は筆者が学生時代に見かけた後、震災が原因か、当日は見つからず。いにしえより「大楠公墓所」を案内して来た岡藩寄進の石燈籠は4基確認がとれた、以下写真を参照。
 石高から言えば中川家は子爵が相当なのですが奥平家(豊前中津十万石)とならんで大分県では2つの伯爵家となりました。 (S・M)
(画像・・・左上;横山大観奉納の大楠公像。右下;伝大楠公着「段威腹巻〔重文〕」、いずれも神社所蔵)
 当日の訪問地 (この「ルーペ」アイコンをクリックで拡大します!はクリックで拡大)
湊川神社正面
湊川神社 門前正面
 

周辺マップ / 別ウィンドウクリックで拡大画像にジャンプ!
神官後方の燈籠は岡藩士の寄進
神官後方の燈籠は岡藩士寄進
左写真の拡大画像
左燈籠中心部拡大
大楠公御墓所(嗚呼忠臣楠子之墓)
大楠公御墓所
 
岡藩士寄進の燈籠、墓所入って直ぐ左手の燈籠。同様の燈籠はここに全部で4基あった。
岡藩士寄進燈籠
墓所入り直ぐ左手
写真左の燈籠の胴の部分の拡大画像
左燈籠中心部拡大
この燈籠も岡藩士の寄進
この燈籠も岡藩士の寄進
 
岡藩士寄進の燈籠(4基目)
4基目の燈籠
権禰宜「後藤さん」の親切な案内により、神社の寄進一覧で確認できた!
岡藩士の寄進物を神社の資料にて確認
右は権禰宜の「後藤英三」様
(氏は水江元副会長のいとこにあたり
当日丁寧で親切なご案内を頂く) 
神社の目録資料の部分
神社目録資料の
岡藩士奉納の記載
楠木正成公終焉の地
楠木正成公戦没地
「此の地は延元元年(1336年)5月25日、
大楠公が一族16騎、郎党60余人と共に
自刃せられた所である」と記されている。
当日の参加メンバー・・・後藤権禰宜を囲み神社境内参道にての集合写真!
当日の参加メンバー
後藤権禰宜を囲み


           水戸(徳川)光圀像
水戸(徳川)光圀像
 
湊川神社の由来 (神社縁起の案内ガイド板による)
所在地 神戸市中央区多聞通3丁目1番1号
 御祭神 (主神)楠木正成公(大楠公)
      (配祀)楠木正行まさつら卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された
          楠木正季まさすえ卿以下御一族16柱並びに菊池武吉たけよし卿
      摂社 甘南備神社(御祭神、大楠公夫人)
 境内神社 楠本稲荷神社(御祭神、倉稲魂命うかのみたまのみこと・猿田彦命さるたひこのみこと
                        ・大宮女命おおみやめみこと)
        菊水天満神社(御祭神、菅原道真公)
由 緒
 大楠公は、元弘元年(1331年)九月に御醍醐天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興けんむのちゅうこう」に大きな功績をあげられた。しかし、謀反により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公は、ここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(1336年)5月25日、弟正季卿と「七生報国」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
 その後御墓所は、豊臣秀吉検地の際、免祖地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主・青山幸利よしとし公によって松と梅が植えられ、五輪の供養等も建てられた。更に元禄五年(1692年)、水戸光圀公(義公)によって、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公の御盛徳が天下に顕彰された。
 これにより、大楠公景仰の気運が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。
 そうした幕末から維新にかけて、尊崇してやまない已まない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)4月明治天皇は、神社創祀の御沙汰書を下された。
 よって明治5年(1872年)5月24日、社名を「湊川神社」とし、初めての別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭、翌25日楠公祭が斎行された、ここに湊川神社が創建された。
御盛徳
 大楠公は、智・仁・勇の三徳を備える非常な人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。
 大楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はない、と言われるほど、その後の国民に大きな感化を与えたのであった。
祭 日 楠公祭 5月24日(宵宮祭)、25日(本祭)、26日(翌日祭)
      例 祭 7月12日 その他各月恒例祭あり
国の指定史跡 「楠木正成戦没地」(大楠公御殉節地)、境内西北隅
           「楠木正成墓碑」(大楠公御墓所)、境内東南隅
 
湊川神社縁起。正門向かって左の表示看板。湊川神社縁起。正門向かって左の表示看板。
湊川神社縁起。正門向かって左の表示看板。湊川神社縁起。正門向かって左の表示看板。
正門向かって左に掲げられている湊川神社の由緒

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