「石清水八幡宮」の由来 |
【 祭 神 】
以下の三神を祀り、「八幡大神」と総称する。
中御前 - 誉田別命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇)
西御前 - 比淘蜷_(ひめおおかみ・宗像三女神)
東御前 - 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
【 由 緒 】
清和天皇が即位した翌年の貞観元年(859年)の夏、弘法大師空海の弟子であった南都大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けた。これを受けて、その翌年の860年、清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。「石清水」の社名は、もともと男山に鎮座していた石清水社(現在は石清水八幡宮の摂社)に由来する。
以来、京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として皇室・朝廷より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。
また、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏など、多くの清和源氏の中の河内源氏の系統が氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された
当社の御神前で7歳の春に元服して「八幡太郎」と称した源義家の父の源頼義が、河内源氏の氏神とした壺井八幡宮は、石清水八幡宮を源氏の本拠地の河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壺井)に勧請したもの。また鎌倉の鶴岡八幡宮は、源頼義が石清水八幡宮(あるいは壺井八幡宮)を勧請した鶴岡若宮にあり、源頼朝が幕府を開く際、鶴岡若宮を現在地に移し改めて石清水八幡宮を勧請したことを創始とする。
創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称し、東寺(教王護国寺)や清水寺、比叡山延暦寺、仁和寺、鹿苑寺(相国寺・金閣寺・銀閣寺)など、多くの寺院との歴史的関連が深い。また、河内源氏と競合相手と考えられている伊勢平氏もこの社を重んじており、平正盛が造営の功を上げたことや平清盛ら伊勢平氏の主だった人々が八幡宮の臨時際で舞人を演じたとする記録が残されている。
明治時代(1868年)の神仏分離までは護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山48坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ね、寛永の三筆として知られる松花堂昭乗も八幡大菩薩に仕える社僧の一人であった。
1868年(明治元年)、仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の放生会は中秋祭に改めさせられた。
1871年、官幣大社に列するとともに、社号を「男山八幡宮」に改名されるが、1918年には石清水八幡宮に復する。
また現代では、松下電器産業の創業者でもあり「経営の神様」とも称された松下幸之助が深く信仰したほか、厄除開運、必勝、商売繁盛、家内安全などの御利益を願って全国から参拝者が足を運ぶ。 |
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