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 第3回・・・・・・開祖、通幻禅師の永澤寺を訪ねて
永澤寺の国東塔・アイコン
国東塔
訪問先  永澤寺(ヨウタクジ)・・・曹洞宗寺院、開祖 通幻禅師  〔H18/11/3(金・)〕
所在地  兵庫県三田市永沢寺210
交 通  最寄り駅:JR福知山線の「新三田」駅からバスで約10分
 車:中国自動車道:西宮北インター〜約40分、神戸三田インター〜約30分
    舞鶴若狭自動車道:三田西インター〜約30分、丹南篠山口インター〜約30分
所縁の地  国東市国東町治郎丸
  永澤寺(ヨウタクジ)は兵庫県三田市にあるお寺です。曹洞宗の寺院で今から約600年前に国東市国東町治郎丸出身の通幻寂霊禅師(ツウゲンジャクレイ;1321〜1391)によって開かれました。時は室町幕府の草創期、南北朝が争っている時代でもあります。永澤寺本堂内部正面
 お寺の所在地はJR福知山線の新三田駅からバスで約10分、摂津と丹波の国境近くにあります。
 筆者一行が訪問したのは深秋の時期でしたが、初夏には菖蒲の群生が見られる素晴らしいお寺です。県人会顧問の内田彰さんのお家のお墓があり、そこには通幻禅師にちなんで国東塔が建立されております。
 通幻寂霊禅師は師匠としても素晴らしい方だったようで十哲として各地の大寺の開山を育てていらっしゃいます。曹洞宗は、福井県の永平寺が本山として有名ですが、神奈川県の総持寺は通幻禅師の弟子によって開かれております。  (S.M)
  当日の訪問地 (ルーペマークの画像はクリックで拡大致します!はクリックで拡大)
 本堂の全容
本堂の全容

マップ (周辺) / (広域
本堂内正面
本堂内正面
 
国東塔と内田家の墓←クリックで拡大!
国東塔と内田家の墓
開祖 通幻禅師の墓
開祖 通幻禅師の墓
 
当日の参加者、於;本堂前←クリックで拡大します!
当日の参加者、於;本堂前
 
国東塔
国東塔
 
永澤寺 由来
縁 起
 永澤寺は、応安年間(1370頃)に、五州の大守細川頼之卿が後円融天皇の命により七堂伽藍を建立し、高徳善知の誉れ高い傑僧通幻寂霊禅師を開祖とする禅寺である。寺籍は、曹洞宗に属し、大本山總持寺(能登、現在は横浜市鶴見)の直末である。末寺は17カ寺、更に、通幻禅師ゆかりの寺院は8900カ寺を数え、これを通幻派といい、曹洞宗がわが国で最大の宗団になる基になったのである。
  本尊は、釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来の釈迦三尊を祀り、秋葉殿には火防に霊験あらたかな秋葉三尺坊大権現、開祖堂前には大地蔵菩薩、妙高閣には大観世音菩薩、奈良生駒の信貴山本尊の御分身毘沙門天が祀られている。
  建物は、安永7年(1778)に再建された本堂、開祖堂、庫裡、接賓、書院のほか、昭和40年の台風で崩壊した後に再建された勅使門(茅葺きでは全国で2カ所といわれる)、玉兎門、金鶏門、山門(仁王門)、妙高閣(地下1階、地上3階)がある。境内地は16000坪、寺有林は40町歩、更に、6町歩の寺有林を活用した「三田霊園」と「さんだ動物霊園」を所有している。
 古来(江戸時代以前)から「通幻禅師開創の四箇道場」の呼称がありますが、通幻禅師ご自身によって開山された寺院のうち、まず最初にあげることのできる寺院は、摂丹境の永澤寺です。
 この摂丹境は、京都をあとに西へ、また、大阪からは北に向かって、それぞれ徒歩で一日行程の路次にあり、摂津・丹波・播磨を眺望できる三国山の南麓に位置し、あまたの霊場をもつ山伏修験者にとっての要衝の地でありました。
 そして、この地は修験者たちばかりでなく、当時の武将にとっても戦略的に重要であったので、足利幕府管領職の細川頼之の懇望により、通幻禅師を開山に迎えて応安3年(1370)ここに永澤寺が開かれました。
 開創後まもなく後円融天皇の勅願所となり、また、通幻禅師滅後は通幻門下の祖廟として重要な性格を担ってきました。江戸時代に入って寛永6年(1629)、幕府が初めて曹洞宗に僧録制を発布した際、永澤寺が丹波・丹後・摂津・播磨・但馬の諸国、つまり今の京都府の北部と兵庫県全域の曹洞一宗の「僧録」に任ぜられ、そのとき江戸幕府へ提出した「永澤寺由緒書」に六ヶ条の由緒が記載されていますが、最初の二ケ条には、
一、摂津・丹波両国の境目、青野原永澤寺は通幻和尚開闢の地なり。而して・日本曹洞一宗大本山能州総持寺門首たる事。
一、 応安年中、当寺開山通幻和尚の道徳、後円融院帝の叡聞に達す。之れに依り、丹波・摂津・讃岐・伊予・土佐の五州の大守細川右京大夫源頼之公に仰付けられ、公は七堂伽藍を創建あそばされ勅願所となさしめたまう。則ち、天下曹洞一宗の大僧録を賜う。これより日本国曹洞一宗の規矩、諸法度は当寺に於て相定むる事、延宝伝灯録、また、総持寺旧記に詳かなり。後円融院帝御崩御の後、御遺勅に依り、当寺に於て一千七百僧を聚会し、百日の間、御追福の御法事仰せ付けられる。これ、扶桑国曹洞宗の江湖会(ごうこえ)法式の始めなり。

  と記されています。(『続・曹洞宗全書「寺誌」115頁所収』)。

通幻禅師〕俗姓は藤原氏。諱は寂霊。道号は通幻。豊前国国東郡武蔵郷の出身。
 通幻禅師は元亨2年(1322)に生まれます。この世とは別な世界・・・墓中・・・からの誕生です。臨月をひかえて亡くなった母親を埋葬した翌日、子どもの産声がするので墓を掘り起こすと、そこに男の子が生まれていました。父の名も定かではなく、出生地も誕生の日も伝わっていません。誕生そのものが怪異であったので、墓中からの出生が強調されすぎて、他のことが忘れられて伝わったのでしょう。ご自身が70年を生き抜いたと遺偈(ゆいげ)に書き残されているので、逆算すると元亨2年にあたります。
  生まれた時から神童にしたてられるでもなく、生きる力を存分に秘めて裸のままで生まれ出て、人の運と仏の縁にめぐまれて、力強く当時の時代を生き抜かれた禅僧の生涯に、篤い敬慕の念をいだきます。
 出生地は京都丹波とも、北九州(大分県国東郡武蔵郷)とも、因州(鳥取県岩見町)とも、越前国府(武生市の竜泉寺では、出生されて墓中に埋葬したと伝えている)ともいわれ、三田の民話にも通幻禅師の出生の話があるほどです。様々な考証があり定説はありませんが、武蔵郷を誕生の地とする説が自然のようです。
 壮年期を迎えた通幻和尚は、その師・峨山禅師の總持寺経営の意志を継ぎ、摂丹境に永澤寺を開創してここを活動の本拠にしつつ、曹洞宗が室町・戦国の世を通じて飛躍的に発展する素地をつちかい、宗門史上特筆すべき偉才ぶりを発揮されます。“通幻寂霊”のその名は、末代にまで輝いています。
永澤寺公式サイトより) 

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