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 第4回 その4)・・麻田剛立先生・田能村竹田先生の墓所を訪ねて   口縄坂-織田作-別府 の関係
淨春寺正門・「麻田剛立墓所」の碑文 訪問先  淨春寺(曹洞宗寺院)と、作家織田作之助所縁の口縄坂  〔H18/12/17()〕
所在地  大阪市天王寺区夕陽丘町5
交 通  最寄り駅:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅
所縁の地  淨春寺・・杵築市(麻田剛立)、竹田市(田能村竹田)、口縄坂・・別府市(織田作之助)
 麻田剛立先生(1734〜1799) 江戸中期の天文学者。豊後杵築藩儒綾部閨斎の子供として生まれ、麻田家に養子に入った。藩医となったが、脱藩して大坂に住み暦学を研究。天文学に秀で、欧州でケプラー(1571〜1630)が天体に関する法則を発見した時になにも周囲に助ける人が無かったにも関わらず、ほぼ同時期に発見した。鎖国なかりせば全世界にその名をたかめていたであろう。
 田能村竹田先生(1777〜1835) 江戸後期の文人、南画家。豊後岡藩竹田の人。江戸に出て谷文晁に画を師事。更には経学・詩文に長じ、頼山陽らとも親交をもった。
 奇しくも同郷の科学者と芸術家が同じ寺(曹洞宗)に葬られている。地名「夕陽丘町」の由来;聖徳太子の時代、近隣に四天王寺が建立され、また上町台地の南端にあったことからその西側には海が迫り、夕陽が沈むのが美しかったことからこの地名が付いた。西方浄土信仰と結びつき、多くの人々が暮れなずむ太陽を拝んでいた古くからの夕陽展望の名所である。口縄坂
 なおこのあたりは寺町としても知られており、台地とその下の町一帯には多くの寺がある。また台地に上っていく幾多の坂にそれぞれ名称が付けられており、この寺の所は口縄坂と呼ばれている。これは道の起伏が蛇の蛇行の様子に、また石段が蛇腹に似ていることからその名前がつけられたとされている。
 この松屋町筋と谷町筋を東西に結ぶ「口縄坂」は小説「夫婦善哉」で有名な地元生まれの作家織田作之助(略称;織田作)が好んで小説の舞台にした所縁の地でもある。  (S.M)
  当日の訪問地 (はクリックで拡大)

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淨春寺正門
淨春寺正門
麻田剛立先生の墓
麻田剛立先生の墓
麻田剛立先生の墓碑銘・・・クリックで拡大します!
左;墓碑銘
田能村竹田先生の墓
田能村竹田先生の墓
 
  
口縄坂(松屋町から東へ望む)
口縄坂・・・松屋町から東へ望む
淨春寺はこの坂を上りきった
右手(南側)にある
 
松屋町筋側にある「口縄坂」の説明板・・・クリックで拡大します!
「口縄坂」の説明書(松屋町筋側)

  織田作之助と“別府”との所縁 鹿児島で発見された「続 夫婦善哉」の織田作之助直筆原稿・・・クリックで拡大!
「続 夫婦善哉」
直筆原稿

 
  「夫婦善哉 完全版(続 夫婦善哉)」の表紙、雄松堂出版。・・・クリックで「夫婦善哉完全版のコーナー(雄松堂出版)」へジャンプ!
夫婦善哉
完全版
 戦中の軍部による言論統制の煽りで、永年にわたり幻となっていた、夭折の作家織田作之助(1913〜1947)の代表作 「夫婦善哉」 の続編が近年鹿児島県内で発見された。(右は直筆原稿
 内容は、主人公の柳吉・蝶子夫婦が大阪を離れ、なんと別府に移住し理髪店御用達(柳吉の実家代々の商い)の商売をはじめる話になっている。舞台を別府に遷すが、本編と同じくここでも夫婦喧嘩を交え、織田作之助、近影時には仲睦まじくも夫婦二人三脚で生活していく様子が活写されている。
 蝶子のモデルは織田作の姉であるとされており、実際その姉は旅館(小説では「理髪店御用達」)の仕事により、別府に移住したそうで「蝶子=織田作姉がモデル」の話を裏付ける内容になっている。この続編は「夫婦善哉 完全版 (左写真;表紙) 」のタイトルで雄松堂出版より、平成19年10月(初版)に上梓された。 (J.Y)

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